昨日夕方、だんご(1歳息子)を連れて近所のスーパーに買い物に行った。
スーパーの入り口に置いてある、小さい子どもが座って乗れるような椅子がついたカートにだんごとカゴを載せ、売り場を見て廻った。
前半は好調だったが、退屈しだしたのか後半泣き出したので、
おはぎ
と声をかけながらレジの列に並んだ。
「大きな声を、出しちゃいけない」
そこへ、腰が曲がった高齢女性が、優しい声色で「どうしたの〜?」と息子に近づいてきた。
そのおばあさんは息子と手をタッチしあうような素振りをして「ねぇ、笑って」と言った。
おかげでだんごは一時的に泣き止み、少し微笑むまでになったので、
(日本でも(今まで住んでいたシンガポール同様に)子どもに優しくしてくれるおばあさんがいるのだな。ありがたいなぁ。)と私は思ってほっとした。
すると最後におばあさんがこう言った。
「大きな声出しちゃいけないのよ。周りの人がね…」。
(そうか。)と私は思った。
おばあさんが息子に「笑って」と言ったのは、ただうちの息子の可愛い笑顔が見たいからというわけではなく、
あくまでも、「公共の場では泣かずに静かにするべきだ、と伝えたかったから」なのかもしれない。
私の感覚としては、
(べつに映画を楽しむ映画館でもなし、静けさを楽しむカフェでもなし、ざわざわしたスーパーでの買い物中に息子がちょいと泣いたからと言って、そんなに迷惑だろうか?早めにレジに並んだんやし、あとは出るだけやん。)
と思ってしまうのだが。。
↑漏れる本音^^;
しかし…私の考え方が一般のひとのそれとずれているかもという可能性はある。
彼女の口から漏れた言葉同様、やはり周りの人も、我が息子のことを迷惑だと思っていたのだろうか。
私はショックこそ受けなかったが、スーパーからの帰り道、いろいろな方向に考えを巡らせた。
あのおばあさんも、途中で「いらぬことを言ってしまった」と気づいて慌てて口をつぐんだのかもしれない。
シンガポールでも、もしかしたら今までに何か息子の態度に関して、通りすがりのひとに英語か中国語で指摘されたものの
私が聞き取れていなかったがために気付かなかったような場面があったのかもしれない。
この一件だけで、「日本はどうこう」だと語るつもりはない。
実際私は2週間前に帰国してからというもの、日本の良い面もたくさん享受してきているのだ(過ごしやすい気候、桜がきれい、食が美味しく低価格で健康的、医療費の負担が少ない…etc.)。
「今いる場所が全てではない」と知っていること
それでも思う。
「『今いる場所の社会通念が全てではない』、と知っていることは強い」、と。
個人的に、「海外(自分が生まれ育った国以外の国)に一定期間以上生活する」ことで得られる一番のメリットは、こういった感覚が体に染み付くことだと思う。
私の脳裏には、ありありと思い出せるほど強く、シンガポールの人々が私と息子に笑いかけて親切にしてくれたときのチャーミングな笑顔が残っている。
それは、その子の親がするような表情に近い、「子どもが泣いていても笑っていても、ただ子どもの存在自体を慈しみ、目を細めて見守るような笑顔」だった。
(もちろん今回は、たまたまこういった1件があったというだけのこと。これから日本で子育てしていくなかで、見知らぬひとに良くして頂ける機会もあると思う。とにかく色々な人の考え方を感じ取っていきたいと思う。)
「あれ…?」と感じるようなことを誰かに言われる場面では、
「今自分の目の前にいる人とは違う考え方や行動をする人が、この世界には山ほどいる」という感覚が、自分を救ってくれることがある。
未だに英語もカタコトで、人に自慢できるような海外生活での成果はなーんもない私ですが。
今の私にとっては、これこそが海外に住んで、1番「良かった」と思うこと。